【島津製作所資料館】 明治維新から間もない1875年。仏具職人の二男に生まれた初代島津源蔵は京都・木屋町で理化学器械の製造を始めました。資源の乏しい日本の進むべき道は科学立国であるとの理想に燃え、 科学知識の普及を通じて社会に貢献することを目指したのでした。木屋町二条界隈は京都の殖産興業、科学振興の中心地で、源蔵は理化学の授業と実業の指導をする舎密局によく出入りをし、さまざまな技術や知識を身につけます。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会での表彰や、京都仙洞御所における日本初の有人軽気球飛揚の成功などで源蔵自身の評判も高まりました。 1882年(明治15年)には総数110点の物理器械などを掲載した理化学機械カタログ「理化器械目録表」を発刊するなど業務を拡大。1886年(明治19年)には京都師範学校の教師として招かれるとともに、科学技術雑誌「理化学的工芸雑誌」を創刊するまでに至りました。
【旧明倫小学校の二宮金次郎像】江戸後期の実践的農政家二宮尊徳(幼名金次郎/生没1787-1856)は、父を14歳で母を16歳で亡くし、伯父の家で苦しい農耕をしながら「論語」「大学」「中庸」等を独自に学び、青年期に家を再興しました。後に小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功し、この経験を元に独特の農法・農村改良策(報徳仕法)によって小田原・烏山・下館・相馬藩等の凡そ600村を復興しました。農村の生産力に応じた分度を定め勤倹を説き、その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広め、尊徳没後も多くの優れた門人によって、幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動は進みます。農村の振興に貢献した偉人でしたが、彼は常に、私の言葉は残さず、私の「行動」を残せと言い続けたそうです。
【元離宮二条城】 二条城は、1603年(慶長8)徳川家康が造営、3代家光が伏見城の遺構を移すなどして増築を行い1626年(寛永3)に現在の規模になりました。東西約500メートル、南北約400メートルに塁を築き堀をめぐらしています。1867年(慶応3)15代慶喜が大政奉還を決めた場所としても有名です。現存する二の丸御殿(国宝)は6棟からなる武家風書院造です。部屋の障壁画は狩野一門の名作。彫刻、飾り金具を含め桃山美術の粋を伝えています。二の丸庭園(特別名勝)は小堀遠州の作。本丸御殿は天明の大火(1788・天明8)で焼失。現在の建物は京都御苑内にあった旧桂宮御殿を移築したもの(重文)です。1994年(平成6)12月。「古都京都の文化財」として「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されました。
【管大臣(かんだいじん)神社】 菅大臣神社は、天神信仰発祥の神社という「文子天満宮」から北西に歩いて15分ほどの所にあります。この地は約1000年前の菅原道真(849~903)の邸宅で、紅梅殿・白梅殿や菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所の跡です。創立年代は不詳。鎌倉期には南北両社に別れ、南社を白梅殿社、北社を紅梅殿社と呼んでいました。度々の兵火に会い、応仁の乱後の慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興されました。その後も消失と再興を繰り返し、現在に至ります。本殿は、天保6年(1835)造立の下鴨神社本殿を明治2年(1869)に移築したもので、幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築物です。